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2014-08-10

あの日爆心地の近くにいたおばあちゃんは、まだ僕に一度も被爆当時の体験を語ったことが無い。

1945年8月9日、長崎。

僕の祖母はその日。

爆心地からそれほど遠くないところにいた。

当時、12-3歳。その日は防空壕を掘る作業に充てがわれていた。

 

 

 

11時2分。原爆が投下されたその瞬間

まともに、爆風を受けていたら即死だったところを、

たまたま掘っていた防空壕の中にいた。生き延びた。

それから、被爆後の長崎を生き抜き、最愛の人と結ばれ、2人めに出来た娘が僕の母親だ。

 

 

 

これらのおばあちゃんの話は、母親からきいたもので

本人が積極的に語ろうとするものでもないし、孫である僕がきくのも

壮絶な記憶を思い出させそうで、すごくためらわれる。

 

 

母親が言うには、おばあちゃんは今でも「あのとき」の夢をみるらしい。

 

 

 

 

あれはなんだったんだろう。

 

 

毎年夏になると、図工室の前に原爆被害の写真が貼られた。

丸焦げになった死体の写真、背中が焼けただれた少年、山のように積み上がった頭蓋骨。

給食をとりにいくとき、決まってその図工室の前を通らなきゃいけなかった。

女の子は皆通るときには目を覆っていた。僕も毎回通るたびに目を覆いたかった。

 

そんな夏の光景にある程度「慣れ」てきた小学5・6年生。 今度はそれが図工室の前から小学6年生フロアのトイレの前に貼られた。

僕たちは、トイレに行く度に丸焦げの死体、泣き崩れる人、大やけど、きのこ雲の写真をみていた。

 

あれはなんだったんだろう。

 

生まれてはじめて「原爆資料館」にいったのは確か、5歳か6歳のとき。

 

物心ついて間もなかった僕はそこを「おばけのいるところ」だと認識していた。

目をぎゅっとつむり耳を塞ぎ、ほとんど何も見ずに通り抜けた。

イヤダイヤダと泣き叫んでいた1コ上の姉の泣き声だけが記憶にのこっている。

 

「学習」というよりも「トラウマ」だった。

 

それから、毎年あった平和集会での語り部さんの話は断片的にだけ覚えてる。

 

 

唯一ハッキリとおぼえているのは、2007年の8月9日。

高校3年生。最後の平和集会。

 

そのときの語り部さんは、それまでの人と少し様子が違った。

一通り被爆体験を語り終えた後、ハッキリと強い口調でこう言い放った。

 

「いいですか、皆さん。日本への原爆投下は一種の“人体実験”でした」

 

「この写真(被爆前)とこの写真(被爆後)、まったく同じアングルで撮影されていますね。

他にも、広島も長崎も、とても良く記録資料が残っています。なぜでしょうか。

それはアメリカが、原爆の威力を検証して示したかったからです」

 

あのとき、体育館にいた他のみんなはどう思っていたのだろう?

僕はけっこうな衝撃を受けていた。

原爆は「戦争を終わらせるために落とされたもの」と思っていたから。

 

語り部さんはこう続けた。

 

「人類は、かつてない技術を開発したとき、それを“使いたく”なります。そして一度それを使いました。過ちを犯しました。」

 

「その兵器は、今も世界中にあります。数えきれないほどに。隣国、北朝鮮も持っています。」

 

「次、いつそれが落とされるかわかりません。明日かもしれない。“落とされない”という確証はありません。」

 

その言葉をきいたとき、遠い過去のものだった「原子爆弾」が急に今の自分、これからの自分に迫ってきた。

 

え?え?原爆落とされる? 前にいるN君も後ろにいるH君もみんな死ぬ?

好きなあのコも死んじゃうし、家族もみんな…..。 えー!やだやだ!絶対いやだ!

 

当時の僕は国際情勢なんて何もわかっちゃいなかった。(今もわかってないけど)

わからないが故に漠然とまっすぐに「平和に貢献できる人になりたい」と思った。

 

大学は「国際関係学科」という、それらしい名前の学科に入った。

 

ただ大学になるとまともに机に座って勉強に励んだ記憶はなく、

長崎を離れると、8月9日がだんだんと「普通の日」になっていった。

 

 

 

今年の夏は、インターネットが少し騒がしい気がしてて、いろいろと思うところがあった。

 

 

 

「いつまでも原爆原爆うるせぇよ」

→ http://togetter.com/li/702874

「首相また ”コピペ” 長崎平和式典スピーチ」

→ http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014080902000239.html

 

どちらも、今までになかったことだよな。と思う。

 

twitterで「いつまでも原爆原爆うるせぇよ」とつぶやく人は

きっとテレビかインターネットしか眺めていない人、体験談を話半分に聞き、

資料館に足を運んでいたとしても、半ば目と耳を塞いで通り過ぎたような人だと思う。

 

要するに、さんざん「平和教育」を受けてきた高校2年生までの僕だ。

僕の場合、最後の平和集会にしてはじめて、「原爆被害」→「戦争・核兵器はダメ」ではなく

「日本への原爆投下とは何だったのか」を語る人が現れた。そこから見方が変わった。

 

「もう被爆話にはうんざり」と思う若い人には

「問い」を投げかけることが必要だと思う。

 

なぜ、広島と長崎には異なる種類の爆弾が使われたのか?

なぜ、原爆投下目標には、「無傷の都市」が選ばれ、「その日」まで爆撃が禁止されていたのか?

なぜ、アメリカは数年間にわたり原爆被害の情報を外部に漏らさないようにしたのか?

 

 

首相の、スピーチコピペはさすがに「そりゃないだろ」とおもっていたけれど

「安倍首相が広島平和祈念式で去年と同じスピーチをするのと全く異なるスピーチをするのとどっちが良いか?」

ここでもまた、「スピーチを使いまわしたのはなぜ?」って問いかけるこの記事を読んでハッとした。

 

なぜ、首相はスピーチを使いまわしたのか?

それは、Twitterで「いつまでも原爆原爆うるせぇよ」とつぶやく人がでてくることと、原因は近いような気がしてる。

 

 


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コメント1件

 馬場康恵 | 2014.08.11 7:19

久しぶりに開いたら更新してたので…母さんが思ったこと書くね。健太の中の記憶と母さんの記憶が少し違うと思ったとこもあるけど…長崎にいながら原爆について子供に何も伝えてなかったことを反省してます。母さんも子供のころから夏休みの登校日は原爆のことを学んできました。けれどやっぱりそれは慣れになってきて、ただ暗く恐ろしいもので…当時の資料館はもっと暗いし、ほとんど見ずに逃げるように出て来た記憶しかありません。中学、高校となると全くと言っていいほど戦争について考えたこともなく、半径2メートルくらいの自分のことで精一杯でした。戦争を体験して口癖のように「戦時中のこと思えば…贅沢だ」と何かつけ言ってた母もだんだん言わなくなりました。だから母さん達の孫の世代が署名活動などしてる姿に感心します。母さん達世代は本当に無知で何もして来なかった。戦争を体験した親に育てられたのに、育てられたこそ、普通に普通に何事もなくと大事にされ過ぎたのかもしれません。長くなりそうなのでまた会った時にでも話すけど…4年前の8月9日に初めて爆心地に行って黙祷しました。ほんとに遅かったけど…戦争が心から恐ろしいと思ったのは、自分が子供を産んでからからです。けれどやっぱり子育てで必死でそのことを大きな声で叫ぶこともしないで過ごして来た日々でした。今一つ強く思うのは、まずは自分のまわりの人たちの平和を思おうということです。ほんとに小さな集団…たとえば職場でも毎日いざこざが絶えない。他人を思いやるとか、苦しみを想像するとかそんな力の不足した人が多過ぎる。そこからクリアしないといけないのではないかと…思います。そう思って日々過ごすことしかできない無力も感じながら…今年の記念式典の中継を見てました。首相のスピーチに拍手なんてしないで…って思った。見事に街は復興したって言ってたけど…原爆前の長崎はもっと美しかったそうです。

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