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2015-01-02 | NEWS, NICHIJYOU, THINK

上京しました。

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あけましておめでとうございます

いやぁ、あけましたね。2015年。

年末、歩きながら眠りに落ちていて

電信柱におもいっきり顔面をぶつけて

誰かに殴られたような味のある顔で新年を迎えました馬場です。

 

 

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2014年は

岡山県のPRのしごとをさせてもらい

港町のゲストハウスの管理人をさせてもらい

 

それからとても不思議なことに

僕が大好きで愛読していた雜誌をつくっている方から突然声がかかり、

 

いまは東京でいわゆる「編集者」として働いています。そう、気づけば東京の人なのです!

 

2014-10-25 | PERSON

岡山でのすばらしき日々

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前回の「23歳新卒無職が、県のPRマンをやった話」からだいぶ間が空いてしまいました。

 

この、とても懐の広いPR企画のおかげもあり

僕は岡山のことがかなり好きになってしまいました。

 

「なんか気になる」とか「チラチラ見ちゃう」とかを超えて

ああ、これは好きだわ。指先でおくる君へのメッセージだわと。

 

 

これまでの僕の人生で「岡山」はいうなれば、

「クラスで一度も喋ったことのない地味な子」くらいの、なんなら存在を認識してなかったくらいの感じだったのが

突然、あれ、話してみたらめっちゃ楽しいじゃないかー!よくみるとカワイイじゃないかー!

っていう。

 

 

そんな岡山を、この10月に離れることになったわけですが…

 

 

PRスタッフの任期を終えたあと、岡山でどんな日々を送っていたのか。

もっと言うと僕が暮らしたのは「宇野」という瀬戸内海に面した小さな港町。

そこでの暮らしをひとつずつ振り返ってみようと思います。

 

2014-09-22 | WEB

もっと自由に人が住み働く場所を選べるようになるためのメディア

岡山に暮らしていて、少なからず「移住」についてあれこれ思いを巡らせてると

 

「そういうメディア」があったらいいよなぁ、と幾度となく思いました。

 

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real local働く場所も自由に選ぶ、R不動産の移住マガジン– 

“もっと自由に人が住み働く場所を選べるようになるためのメディア”

 

そう、まさにこういうの!

2014-08-10 | THINK

あの日爆心地の近くにいたおばあちゃんは、まだ僕に一度も被爆当時の体験を語ったことが無い。

1945年8月9日、長崎。

僕の祖母はその日。

爆心地からそれほど遠くないところにいた。

当時、12-3歳。その日は防空壕を掘る作業に充てがわれていた。

 

 

 

11時2分。原爆が投下されたその瞬間

まともに、爆風を受けていたら即死だったところを、

たまたま掘っていた防空壕の中にいた。生き延びた。

それから、被爆後の長崎を生き抜き、最愛の人と結ばれ、2人めに出来た娘が僕の母親だ。

 

 

 

これらのおばあちゃんの話は、母親からきいたもので

本人が積極的に語ろうとするものでもないし、孫である僕がきくのも

壮絶な記憶を思い出させそうで、すごくためらわれる。

 

 

母親が言うには、おばあちゃんは今でも「あのとき」の夢をみるらしい。

 

 

 

 

あれはなんだったんだろう。

 

 

毎年夏になると、図工室の前に原爆被害の写真が貼られた。

丸焦げになった死体の写真、背中が焼けただれた少年、山のように積み上がった頭蓋骨。

給食をとりにいくとき、決まってその図工室の前を通らなきゃいけなかった。

女の子は皆通るときには目を覆っていた。僕も毎回通るたびに目を覆いたかった。

 

そんな夏の光景にある程度「慣れ」てきた小学5・6年生。 今度はそれが図工室の前から小学6年生フロアのトイレの前に貼られた。

僕たちは、トイレに行く度に丸焦げの死体、泣き崩れる人、大やけど、きのこ雲の写真をみていた。

 

あれはなんだったんだろう。

 

生まれてはじめて「原爆資料館」にいったのは確か、5歳か6歳のとき。

 

物心ついて間もなかった僕はそこを「おばけのいるところ」だと認識していた。

目をぎゅっとつむり耳を塞ぎ、ほとんど何も見ずに通り抜けた。

イヤダイヤダと泣き叫んでいた1コ上の姉の泣き声だけが記憶にのこっている。

 

「学習」というよりも「トラウマ」だった。

 

それから、毎年あった平和集会での語り部さんの話は断片的にだけ覚えてる。

 

 

唯一ハッキリとおぼえているのは、2007年の8月9日。

高校3年生。最後の平和集会。

 

そのときの語り部さんは、それまでの人と少し様子が違った。

一通り被爆体験を語り終えた後、ハッキリと強い口調でこう言い放った。

 

「いいですか、皆さん。日本への原爆投下は一種の“人体実験”でした」

 

「この写真(被爆前)とこの写真(被爆後)、まったく同じアングルで撮影されていますね。

他にも、広島も長崎も、とても良く記録資料が残っています。なぜでしょうか。

それはアメリカが、原爆の威力を検証して示したかったからです」

 

あのとき、体育館にいた他のみんなはどう思っていたのだろう?

僕はけっこうな衝撃を受けていた。

原爆は「戦争を終わらせるために落とされたもの」と思っていたから。

 

語り部さんはこう続けた。

 

「人類は、かつてない技術を開発したとき、それを“使いたく”なります。そして一度それを使いました。過ちを犯しました。」

 

「その兵器は、今も世界中にあります。数えきれないほどに。隣国、北朝鮮も持っています。」

 

「次、いつそれが落とされるかわかりません。明日かもしれない。“落とされない”という確証はありません。」

 

その言葉をきいたとき、遠い過去のものだった「原子爆弾」が急に今の自分、これからの自分に迫ってきた。

 

え?え?原爆落とされる? 前にいるN君も後ろにいるH君もみんな死ぬ?

好きなあのコも死んじゃうし、家族もみんな…..。 えー!やだやだ!絶対いやだ!

 

当時の僕は国際情勢なんて何もわかっちゃいなかった。(今もわかってないけど)

わからないが故に漠然とまっすぐに「平和に貢献できる人になりたい」と思った。

 

大学は「国際関係学科」という、それらしい名前の学科に入った。

 

ただ大学になるとまともに机に座って勉強に励んだ記憶はなく、

長崎を離れると、8月9日がだんだんと「普通の日」になっていった。

 

 

 

今年の夏は、インターネットが少し騒がしい気がしてて、いろいろと思うところがあった。

 

 

 

「いつまでも原爆原爆うるせぇよ」

→ http://togetter.com/li/702874

「首相また ”コピペ” 長崎平和式典スピーチ」

→ http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014080902000239.html

 

どちらも、今までになかったことだよな。と思う。

 

twitterで「いつまでも原爆原爆うるせぇよ」とつぶやく人は

きっとテレビかインターネットしか眺めていない人、体験談を話半分に聞き、

資料館に足を運んでいたとしても、半ば目と耳を塞いで通り過ぎたような人だと思う。

 

要するに、さんざん「平和教育」を受けてきた高校2年生までの僕だ。

僕の場合、最後の平和集会にしてはじめて、「原爆被害」→「戦争・核兵器はダメ」ではなく

「日本への原爆投下とは何だったのか」を語る人が現れた。そこから見方が変わった。

 

「もう被爆話にはうんざり」と思う若い人には

「問い」を投げかけることが必要だと思う。

 

なぜ、広島と長崎には異なる種類の爆弾が使われたのか?

なぜ、原爆投下目標には、「無傷の都市」が選ばれ、「その日」まで爆撃が禁止されていたのか?

なぜ、アメリカは数年間にわたり原爆被害の情報を外部に漏らさないようにしたのか?

 

 

首相の、スピーチコピペはさすがに「そりゃないだろ」とおもっていたけれど

「安倍首相が広島平和祈念式で去年と同じスピーチをするのと全く異なるスピーチをするのとどっちが良いか?」

ここでもまた、「スピーチを使いまわしたのはなぜ?」って問いかけるこの記事を読んでハッとした。

 

なぜ、首相はスピーチを使いまわしたのか?

それは、Twitterで「いつまでも原爆原爆うるせぇよ」とつぶやく人がでてくることと、原因は近いような気がしてる。

 

 

2014-07-31 | THINK

23歳新卒無職が、県のPRマンをやった話(その1)

  季節はすっかりサマーですね〜。蚊取り線香のにおいだけで夏を感じてます。

地元の友達から「お盆、集まるけど長崎帰ってくる?◯◯さんとかも来るよ」なんて連絡がきて、 ちなみにその◯◯さんは高校時代僕らのマドンナ的存在で、うわぁ、今どうなってるかめちゃくちゃ気になるー! って思いながらもたぶん今年の夏は帰省できないので

 

近況報告でも書き綴ろうかと思います。

 

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岡山県のPRをやってました

前回の記事でお知らせしていましたが、昨年12月〜今年3月いっぱいの4ヶ月間、 岡山県のPRの仕事をさせていただいてました。 一般人をPRマンとして採用して「好きな方法で、岡山をPRしてね!」という 懐の広い企画でした。馬場は岡山のローカルコミュニティに焦点を当てたブログを書いてました。

 

 

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タイトルはそのまんま『ローカルコミュニティガイド岡山

 

 

uno-farm-top2 一発目に出会った農家さんに未来を感じすぎて、4ヶ月中1ヶ月間まるっとその農家さんの記事しか書いてないとか、計画性の無さとかいろいろで、打ち上げの飲み会では   「最初はこいつ何しに岡山きたのかな?遊びにきたの?っておもった」 という採用サイドからのフィードバックを頂きました。

 

 

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山村アマゾン1 最後の1ヶ月だけはようやくまともに記事が書けたのですが、あっという間に4ヶ月が終了し 社会的にどーんというインパクトを残せないままに終わってしまいました。 「(かっこよく言うと)ローカルの面白さを編集する」っていうかなり興味のあることを仕事としてやらせて頂いただけに、 ものすごく楽しい、けれどインプットしたものを出しきれずに終わってしまい、悔しい4ヶ月間でした。 (4ヶ月でこれだけ?というアウトプット量ですので、税金泥棒!といわれても仕方がありません。お役に立てず申し訳ございませんでした。)

 

 

 

 

 

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ありがとう岡山県

ここからは余談です。 僕は岡山に来るまで、ほんっとに公園のベンチでボーっとしてたような無職(23歳)でした。

 

 

 

 

 

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タウンワークを穴が空くほどみてた

 

 

そんな新卒無職が「PR-MEN」という華麗な肩書をまとい会いたい人に会ったり そもそも人と関わったりできてマンモス嬉しかったです。

何が言いたいかというと岡山県まじでありがとうございました。

この企画を考えて下さったプランナーの方、取材に応じてくださった方々、よそ者の自分に暖かく接してくださった方々、本当に有難うございました。

 

岡山県のPR企画としては、募集のやつが話題になった以降はとくに話題にならずに「失敗」だったかもしれないけど 県のPRを一般人に丸投げするという試みはリベンジしてほしいと勝手におもっています。 (うらやましがってくれてる方もいたし…)

 

 

 

ローカルってやっぱおもしろい。特に県境付近。

正直、岡山県!ってきいても「どこそれ?」じゃないですか。(岡山県民の皆さんすいません…)   実家に帰ったとき親戚に「岡山県のPRばやるとよ」と言うと 「ほ〜岡山…といえば、桃?桃たい!桃カステラば売らんね!」 てな具合に。(ウチの親戚がカステラにしか興味ないだけかもですすいません…)

 

 

ですが、僕は4ヶ月間で岡山の良いところ、自分がみたいものしか見てないせいか 岡山のことを割りと本気で気に入っています。ので、引き続き暮らしています。

 

何が好きかってまだうまく説明できないんすけどね。このあたりの記事で現時点の理由みたいなのを書いてますが。

 

そういうわけで(?)  地名を聞いて「え?どこそれ?」というところほど 未編集な魅力的ポイントがゴロゴロ転がっているんだということを 肌で実感した今!

「なにもない」と言われるところほど何かがある予感で胸がいっぱいな今! 東京も楽しそうだし地方も今どこかしこでおもしろいことが起きてるよっていう分野で引き続き動いていくと思います。

 

 

 

 

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<次回予告> 魚市場で働こう

 

 

<最近関わってるもの・こと>

プリント あたらしくはじまったマルシェイベントの広報としてWEBつくったりいろいろ!

 

プリント グッドロケーションなゲストハウスで掃除人しながらWEBつくったりいろいろ!

 

 

 

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